Sr.Marie Elizabeth 真野 充子 叔母葬儀の記録 I
1929年10月18日生誕 2004年4月25日帰天


2004年4月29日
1030ヨーロッパ中央標準夏時間 日本時間1730
Brugge Schutters Straat 5 カルメル会修道院聖堂にて

それまでの経過

 昨年入院したとの手紙、その後修道院の病室で世話をしてもらうようになったとの手紙が来ていた。 筆跡、手紙の内容ともに心もとない印象を受けて心配になり4月19日月曜日に電話を入れる。

電話に出た Sr.米沢は
「話がおかしいこともあるが、酸素吸入をしていればまだ生きられる、食欲もあるから心配しないように」
「何かの時には必ず連絡しますから・・」という話。 こちらの全ての電話番号を伝えておいた。

22日木曜日 ベルギー Bruggeのカルメル会の米沢シスターより電話が入る。
朝、お医者様が来られて
「いつ事が起きてもおかしくない」と言われたとのこと。
「重態とか危篤ということではないので心配しなくてよいが、お知らせしておきます」
ということでした。 本人も延命処置などは断るとお医者様に伝えたようです。

26日月曜日 取材の方と短時間工房を空けていた時に修道院より電話が入り
ヨーロッパ中央標準時 25日夕1830 Sr.充子 叔母は他界したとのこと
日本時間   26日深夜01時30分 でした。

 連休に訪問するべきか迷っていたところでしたが、容態の進みが早く間に合わず。
スェーデン在住の長男 生(いくる)は即行く手はずを整え始め、私も葬儀の時間が判り次第出発できるように航空券の問合せを開始。
27日に空席があることを確認即発注、その夜出発成田泊、翌28日のLufthansaでFrankfurt経由Brussel着、列車でBruggeに到着 Taxiで修道院に到着。この時すでに生 一家は修道院に到着していた。

せっかくなので、以下の写真はあまり縮小せずに掲載することとした。


 修道院では我々の到着を待っていてくださったが、葬儀屋さんの都合もあって、生 到着の1時間ほど前に納棺が済まされていた。
残念ながら最後のお別れは叶わなかった。 到着後しばし、聖堂に安置された棺の前にたたずむ。

 棺の蓋につけられた金属製の名札。 写真の日付時刻は日本時間、以下同じ。


 清貧の美しさを大切にするこの修道院での葬儀に花はそぐわないと考えて、葬儀ミサに音楽の花束を贈ることを考えていた。

 出発前にSt.Nicolaus(Antwerpen近郊)に居る知り合いのオルガン製作者に修道院の意向を聞いた上でオルガニストを探すように依頼していた。 到着して伺うと、10人以上のオルガニストに依頼したが全員都合が付かず、困っているとの連絡が入っていた。

 Brusselのオルガン製作者に電話を入れて頼んだところ、思い当たる人が居るとのこと。暫くして受諾してくれたので詳細を打ち合わせるようにとの電話。 Brusselの大聖堂のオルガニスト夫人で国分 ももよさんという日本女性。

写真は葬儀ミサの前に打ち合わせをする国分さん。

楽器は 1988年 に私が製作した小型オルガン。  この楽器と、この聖堂の改築費用は充子叔母が真野 毅さん(生前には会うことが無かった私の祖父)から引き継いだ遺産を充てたと聞いている。


司式司祭 4人でミサは捧げられた。 ミサの最初に 「日本とスェーデンから来た遺族を歓迎する」 とドイツ語で司式司祭から言葉があった。

ミサの後灌水式で同僚のシスター方が聖水をかけて帰天を祝う。 後方中央は 充子叔母の看病の中心であったSr.米沢。

ミサに参列する生一家 左から和恵 生 萌(もゆる) 萌君も一応神妙な顔をしていたが、途中でむずかり始めた。


ミサが始まる直前。 オルガニストの国分さんが前奏を弾いている。

この国では葬儀でも参列者は平服だそうだ。 叔母を知る人々が参列してくださったとのこと。
二人正装の人がいたが、葬儀屋さん。


 ミサのCanon(中心部)では全員が祭壇を囲んで参加した。

ミサの後すぐに車で墓地へ向かった。 私は葬儀屋さんが運転する車で、霊柩車のすぐ後に続いた。
墓地の入口。 霊柩車が到着して棺を出す準備をしている。

棺は台車に移された。

台車に乗せられた棺は墓地の中央を進む。

棺に続く葬列の先頭を歩かなければならなかった。

埋葬場所の近くで、司祭の最後の祷り。 中央は 修道院長 その右は Sr.出口。


 その後、葬儀屋さんがスコップに砂を乗せて、まず私の前に差し出す。 戸惑っていると砂を棺にかけろということ。

 土に返す儀式のようだ。 ドイツで葬儀に参加した時には棺を降ろした後本当に土をかけたのだが、ここでは習慣が異なっていた。  本当の埋葬にはだれも立ち会わないですぐに引き返す。


本当は振り返るべきではないのであろうが、取り残されたように置かれたままの棺を撮った。

 左の石の墓碑にはフラマン語で 「使徒である修道女達の墓所」(ドイツ語から推した翻訳)と記されていた。

叔母の墓所は この石の墓碑の影に土を掘った所が見える、その場所。
粗末な十字架と名前が記されるだけのようだ。この修道院に入りこの修道院で没する叔母の墓に相応しいものであろう。


埋葬場所からもどる途中。 この付近はかなり立派なお墓が続いていた。
その手前には幾つもの修道会や神父様方の質素な墓があった。


我々にはどこの墓地であったのかも判らなくなるので記録しておいた。

 上には Brugge市 中央墓地 と記されている。
 その下は開園時間 旧市街から、鉄道駅をまたいで反対側に位置していた。


葬儀の参列者に配られたカード
上が表、写真が表の二つ折り。 写真は少ないが、これは何かの折の集合写真から採ったとうかがった。
左上は、手帳に書かれた肉筆の詩篇の一部 左下の詩篇をここになぜ採ったのかは伺い忘れた。

右下は フランス語で
シスター 三位一体のマリー・エリザベト 充子 真野 1929年 10月 18日 生誕 東京 2004年 4月 25日 死去 Bruges
その下は、左の詩篇のフランス語


葬儀後 修道院院長様から頂いた遺品 最後の病床で使っていたロザリオ。


地元 Vangheluwe司教様からの弔文
フラマン語のため、私には概略しか判らないが、「日本から来た真野家の人々へ・・」との記述も見える。
また、叔母が多くの方面に才長けていたとも記されている。

墓所から戻り、修道院で何人かの参列者やシスター方とお茶をいただきながら、歓談した。 修道院内ではフランス語が中心。 修道院の外ではフラマン語(オランダ語の方言)、毎朝ミサに来られる伯爵ご夫妻はご主人がドイツ語を使ってくださるが、ご夫人とは英語を使う。 他に ドイツ語がかなり確実なご夫人とフランス語だけのご主人のご夫婦もおられた。 私はドイツ語ができても英語はたどたどしい。 息子はスェーデン語で生活しているが英語とドイツ語が少々。 あと日本語ももちろん間に入ってなかなか複雑であったが楽しいひと時であった。 

充子叔母は多くの方々に看取っていただけたが、この先残る修道女方は「早く死んだ方が勝ち」などと言っておられた。

日付入りの写真は須藤 宏撮影、日付なしは 須藤 生 撮影 ロザリオと司教様からの弔文はスキャナ取り込みによるもの
画像ご利用の際には一応ご連絡ください。


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Angefangen 17.Feb.2004