日付:9月24日 最終回 この内容は本日行った作業ではありません。 帰途姫路に立寄り、帰宅後は留守中のことが溜まっており、また帰宅を待っていてくださったところが沢山ありました。 そして、すぐに秋の定期保守に出かけたりしておりました。

締めくくりがないまま「いったい生きているのか?」と心配された向きもあったようです。 もうしわけありませんでした。

 愛媛県北条市聖カタリナ学園のオルガン大規模保守作業も最後の日を迎えました。 いろいろな作業を行いました。 制約のなかで意欲はありながらできなかった作業もありました。 どこかで線を引かなければ際限なくすることを見つけるのがオルガン製作者です。 ここで線を引くこととしました。

 実質3ヶ月に及ぶ作業ができたことは幸いでした。 大掃除をするだけではなく、この楽器を作った後の18年間に自分が習得しえたことを相当量注ぎ込むこともできました。 これで、私の次の世代にこの楽器の保守を任せることになってもほぼ安心できます。

 もちろん、オルガンの基本設計から変えることはできません。 オルガンの現在ある姿の範囲で何ができるかを考えるのも今の私の役目であると考えます。 自分の楽器への一つの責務であるとも信じています。 平均寿命の半分をとうに過ぎ、残りのほうが確実に少なくなってくると、このようなことを考えるようになるのでしょう。

 画像はG.O.の吹子へ風を供給する制御弁のからくりの一部です。 小さな滑車とそこを通る糸、そしてその先に重りが吊るされています。 この画像をだけを見てこの部分がどのようになっているか見当をつけられるオルガン製作者は多くないと思います。 多くの制約のなかで、すでにある楽器を改良するためには"当たり前の発想" だけでは解決できません。 あるいは効率的な解決にならないでしょう。
 今回の作業でも、この例のように今まで見たこともない方法を編み出して初期の目的を達成しえた例がいくつかありました。 新しいことをするにはその論理性とその結果にたいする緻密な考察が必要です。

 問題が起きると同時に頭の中には複数の解決法が(少なくともその端緒が)浮かぶくらいの能力はオルガン製作者には要求されます。 そして、オルガンの保守をする者には、からくりを見ただけで「これは・・・こうなっているな・・」というくらいの理解力が要求されます。 そして、その理解の結果が楽器製作の肥やしとなるのです。

 今回の作業は、オルガン製作者に意欲を持たせるとこういうことになるという第2例です。 前の例は 「ある教会のオルガン改造記」 をご覧ください。 商行為としてのオルガン保守には、今回のような保守作業は全く望めないことは断言できます。

 オルガン製作者としての私の意欲に理解を示し、その機会を与えてくださった 学校法人聖カタリナ学園 の決断に感謝して今回の作業記録を終わります。

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最後の最後に,
 すでにお気づきの方も多いかと思われます。 この作業記録に当然出てくるべき人物オルガニストについて私は全く触れておりません。 その理由はご想像の通りです。 昨年に続いてこのような状況で仕事をしなければならなかったことは残念であり、オルガンの将来に危惧を残すことではあります。
 しかし、我々が危惧する時間の尺度と、もっと広い意味での尺度はことなります。 オルガンは残り、その存在の意味は生かされることでしょう。 幸いであったのは学校の理解があったことです。

 もちろん、オルガン製作者の責任はさらに大きいのですが・・・オルガンとその運命はオルガンを使い管理する人材に依るところが大きいものです。 興味と意欲そして理解力、能力ののない人材がその任についてしまうことは双方にとって悲劇です。
 気付かれた方もあったようですが、7月28日に記したことには、そのような警告、裏の意味があったのです。 締めくくりには相応しい内容ではありませんが、どうしても記録に残しておきたかったことなのでお許しください。